鵜匠の家『十(十の字)』と小瀬鵜飼の歴史を探る

 

鵜匠の家として続く足立家の一代目は

木曽朝日家の嫡男として生まれた者と伝えられております。

戦国の世に家督を弟に譲り小瀬へと討ち逃れたそうで、

なぜ小瀬の地に至ったかその経緯は分かっていません。

 

昔ここが小瀬村と呼ばれていた頃の話。

 

足立姓を名のる名主(現在もその方の子孫が関市に

在住され、その内輪で毎年『やさやさ祭り』なる行事を

当時のままのしきたりによって行われている。)の家で

わらじを脱ぎお世話になる。

 

そこで足立姓をもらい

(或いはその後に別の足立家へ養子入りしたのかもしれない)

 

足立新兵衛と名乗り代々その名を世襲する。

 

 

 

昭和初期のやさやさ祭り


時を経て令和の”やさやさ祭り”

2019年に発症した新型感染症によりマスク必須生活の時代)

いつかこの光景が不思議に感じる時が来るでしょう・・・

どのような経緯をもって小瀬鵜飼が始まったかははっきり

わからないが、足利時代初期に黒野の鵜漁者が長良村及び

岩田村に移り岩田村の鵜漁者が更に永正元年(1504年)

小瀬に移住したと伝えられていること。

 

小瀬の名主がこの辺りの漁業権を持っておったこと。

そして『足立新兵衛名主の世話にて・・・

鵜飼を営み天文二年十一月十五日死去』の文献。

 

今となっては様々な説を唱えるのみとなっている。

 

言えるのは小瀬、長良の鵜飼はもとは一箇所にあり、

分かれたのであるが共に織田、徳川及び皇室の保護を受け

御用をつとめて今日に至ったという事である。

 

 


素描 鮎之瀬を下る鵜之図より 

17代目幹郎

drown by 17th generation cormorant fisherman, Mikio Adachi